ツールドフランスの歴史

黎明期

スポーツ新聞社・ロト(L’Auto、現在のレキップ紙)が発行部数拡大のキャンペーンとして、当時の編集長アンリ・デグランジュが自動車による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりとされている。
パリ・ブレスト・パリ(現在はアマチュアが参加するブルベというイベントに変わっている)を開催していたル・プティ・ジュルナル (Le Petit Journal) と、ボルドー〜パリのスポンサーだったヴェロ紙 (Le Velo) に2社に対抗するためのものであった。

ツールドフランスの第1回大会は1903年に行われた。
パリ郊外モンジュロン (Montgeron) のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」をスタートし、ヴィル・ダヴレーへゴールする、合計走行距離6ステージ・2428kmで行われた。
これは平均すると1ステージあたり400km以上を走るという想像を絶する過酷なレースだった。

道路事情が良いとは言えない初期の頃のレースでは、ほとんど休みがない耐久戦で、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたといわれている。
ただ、第一回大会は1日おきにレース日と休養日が設定されていた。
その後も3~4日ごとに休養日が設けられるなど、休養日の数は現在の3週間に2回よりも多かった。

スタート地点までの移動やゴール後の宿泊先なども自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていた。
そのため、選手は修理用の工具が入ったバッグをハンドルにぶら下げ、交換用のスペアタイヤをたすき掛けにして身につけて走っていた。

第3回からは1日あたりの距離を縮めた分、ステージ数が倍増した。
また山岳ステージが導入が開始された。
ただ当時の自転車にはディレイラーが無かったため、ヒルクライム用の低速ギアを後輪の反対側(左側)に取り付け、上りの手前で自転車を降り車輪の左右を入れ替えることで平地用の高速ギヤと上り用の低速ギヤを使い分けた。
しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を左右反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだったと考えれる。
間もなくディレイラーが開発されるが、デグランジュは「ディレイラーは女子供が使うもの」と使用を禁止した。

初期はルールが一定せず、合計タイムの短いものを総合優勝者にした場合と、第3~10回のようにポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)が実施されたこともあった。
また第9回からチーム単位による参加が始まった。
しかし第30回大会(1936年)までは引き続き個人としての参加も可能となっていた。

年を追うごとにステージ数は増え、またそれに伴いレースは大規模化していくことになる。
1915年から1918年までは第一次世界大戦のために中断された。
ツールドフランスは第一次世界大戦後の1919年から再開されたが、再び走行距離も伸び1ステージ平均350km以上のコース設定で、また総距離は5000km以上になることが1930年代まで続いた。

国別チーム時代〜レース前キャラバン隊の誕生

1930年からはトレードチーム(商業スポンサーによるチーム)の参加は禁止された。
代わりに国別のナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。
しかしナショナルチームだけだと、参加チーム数が不足してしまう。
そのためナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められこととなった。

ナショナルチーム単位での参加に変更した結果、主催者はそれまで商業スポンサーが手配していた選手への機材の供給や移動・宿泊など、ありとあらゆる手配を一手に引き受けなければならなくなった。
主催者は運営費用を捻出するため、レースの前に宣伝カーのキャラバン隊を走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。
こうして現在のツールドフランスでも見られる「キャラバン隊」の原型がこの年に誕生した。

1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km前後の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルが形作られた。
1937年、デグランジュがロト社代表を退くと、ツールドフランスではディレイラーの使用が認められるようになった。
また個人による参加が禁止され、チームカーが導入されるなど「チームによる戦術戦」としてのツールが確立される。
総合優勝以外の各賞が設定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年、山岳賞は1933年(ただしジャージ制定は1975年)、ポイント賞は1953年から、それぞれ始まっている。
このころからツールドフランスは、個人対個人の競争から、チーム単位による集団競技へと移行した。

その間チーム編成の規定は幾度と変更され、試行錯誤が続けられた。
1940年から1946年まで、第二次世界大戦のため再び中断を余儀なくされることになる。

第二次世界大戦後は1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇を達成した。
ボベの3連覇によりフランス国内でのツールドフランスの人気は大きく上がったといわれている。

再びトレードチームによるレース構造へ

1960年代に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが激増、国別チームによる参加のスタイルが時代に合わなくなってきた。
同時期、フランスナショナルチーム内においてジャック・アンクティルとレイモン・プリドールが対立してしまう。
フランスナショナルチームとして二人を同じレースに出場させることができない状態となっってしまった。

当時のフランス自転車界の二大スター選手を片方でも欠くことは、レースの盛り上がりをそぐことになる。
主催者はこの問題を回避するため、1962年からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。
その後1967年・1968年には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、ほぼ現在のツールドフランスのスタイルが確立された。

1960年代にはジャック・アンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成した。

1973年には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された。

1975年には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。

1970年代後半からはベルナール・イノーやローラン・フィニョンらフランス人が活躍。

1980年代後半は後半はヨーロッパ出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモンが活躍した。

1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。

1993年、ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランスがアモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO, Amaury Sport Organisation)傘下となる。

2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成したものの、2012年にドーピングによるものであるとしてその優勝記録を剥奪された。

2011年以降は、2011年のカデル・エバンス、2014年のヴィンツェンツォ・ニーバリを除き、ブラッドリー・ウィギンス、クリス・フルーム、ゲラント・トーマスとイギリス勢が総合優勝を獲得している。

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