1983、1984 ローラン・フィニョン

ローラン・フィニョンは1960年フランス・パリ生まれ。
1983年、1984年と2年連続でツールドフランスを制覇した。
当時としては珍しい大学卒業歴のある選手で、細いワイヤーフレームのメガネがトレードマーク。
これらのことから「教授」や「インテリさん」がニックネームだった。

1982年から本格的にプロレーサーとしてのキャリアをスタートさせたフィニョン。
鬼才シリル・ギマールのルノーエルフに所属したこの年にはクリテリウム・アンテルナシオナルで初優勝を遂げる。

翌年の1983年、チームエースのベルナール・イノーが膝の故障でツールドフランスを欠場。
監督のギマールとイノーが、キャリア2年目ながらもその年のヴェルタ・ラ・エスパニョーラ(当時は秋ではなく、ジロ・デ・イタリアの直前に行われていた)で区間4勝を挙げたフィニョンをエースに抜擢。
ギマールとイノーの期待に応えたフィニョンは、中盤で総合2位へ浮上。
マイヨジョーヌを着るパスカル・シモンを個人タイムトライアルで肉迫。
追い詰められたシモンは第17ステージでリタイアしてしまう。
こうしてマイヨジョーヌを手に入れたフィニョンは、最終ステージまで総合1位を守り抜き、ツールドフランス初出場初優勝を成し遂げた。
それまでルノーチームの中で「新人」という立場だったフィニョンは、「チームエース」という立場に立たされることになる。
「それまでのエース」だったイノーはチームを離れることになる。

1984年、名実ともに「チームエース」としてツールに挑んだフィニョン。
かつてのチームメイトだったイノー(この年から新しいチーム、La Vie Clairのエースとして参加)をアルプス越えで一蹴、2年連続のツールドフランス制覇となった。

1985年は膝の故障の治療とリハビリで、ほぼレースには出場せずにシーズンを終えてしまう。
またこの年で、名門「ルノー」がチームを解散。
ルノーの残党を中心に結成された「システムU」に移籍することになる。

1986年はフレッシュワロンヌで勝利し強調をアピールしたが、ツールではイノーの再三のアタックでレースから脱落してしまう。
前年フィニョン不在のツールで優勝したイノーは一部で「フィニョンがいなかったので勝てた」などと揶揄されたこともあり、徹底的に差をつけたかったとされる。
また膝の故障が再発したこともレース離脱に輪をかけることになった。

1987年・1988年ともに、ツールでは大ブレーキとなり優勝戦線には絡めずに終わっている。

1989年はシーズン初めから好調を維持。
春先のミラノ〜サンレモで2年連続優勝。
ロンド・ファン・ネーデルランドでも優勝。
ジロ・デ・イタリアでもついに念願の総合優勝を達成しマリアローザを手に入れた。
好調を維持してツールドフランスに臨んだフィニョンは周囲からも優勝候補の筆頭に挙げられていた。
フィニョンが圧倒的に優位と言われる中、2年前に受けた散弾銃の事故からレースへ復帰してきたグレッグレモンが予想外の好調さを見せる。
当初総合20位以内での完走を目指すと語ったレモンが、フィニョンとのマッチレースを展開。
山岳ステージではフィニョンが、タイムトライアルではレモンが、それぞれ総合タイムを奪い合った。
最終ステージを前にして、総合順位はフィニョンが1位、遅れること50秒でレモンがつけている。
例年のツールドフランス最終日は通常のマスドスタートレースで、事故でもない限りここでレースは決着がついていたはず。
ところがこの年はフランス革命200年ということもあり、最終ステージはベルサイユ〜シャンゼリゼの個人タイムトライアルが設定されていた。

例年なら絶対に覆らない50秒。
しかし、24kmあまりのタイムトライアルでフィニョンは58秒及ばず、総合成績でも8秒という僅かな差でマイヨジョーヌを失うことになった。
狂喜のレモンと失墜のフィニョンの姿が対照的だった。

その後のフィニョンはいくつかのチームを転々とする。
その間クリテリウム・アンテルナシオナルで再度の優勝したこと以外ではこれといった成績はなく、1993年に引退した。

引退後のフィニョンはツールドフランスの解説をするなど、レースに関わっていた。
2010年8月31日、癌のため死去。

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