2011 カデル・エヴァンス

カデル・リー・エヴァンス(Cadel Lee Evans)はオーストラリア・ノーザンテリトリー出身。
タイムトライアルのスペシャリストでありながら山にもそこそこ強い、典型的なオールラウンダー。
比較的好調を維持し、安定して上位でゴールする。

ジュニア時代はマウンテンバイクのカテゴリーで頭角を現わす。
1995年にはジュニア世界選手権自転車競技大会ロード個人タイムトライアルで3位、マウンテンバイク世界選手権ジュニア部門クロスカントリー3位になるなど、ロード・MTB双方で非凡な才能をみせた。
その後2000年までの間にマウンテンバイクで数多くの優勝・入賞を果たす。
2000年のシドニーオリンピックでクロスカントリーで7位入賞、翌2001年にサエコと契約、プロロード選手としてスタートを切った。
デビューした2001年にはすでにオーストリア1周やブリクシア・ツアーで総合優勝している。
平地、山岳、タイムトライアル全てをムラなくこなすオールランダーと言える。

2005年のツールドフランスでは、オーストラリア出身者としてはフィルアンダーソン以来のベスト10入り(8位入賞)を果たす。
2006年は総合5位、2007年には総合2位となるなど実力をアピール。
2007年、第19ステージ終了時点で総合1位のコンタドールに23秒差まで肉薄したが、おしくも総合2位。
2008年は春先からブエルタ・ア・アンダルシアで区間1勝し総合3位、パリニースでも区間1勝した。
またセッティマーナ・インテルナツィオナーレ・ディ・コッピ・エ・バルタリでは区間1勝に加え総合優勝も果たす。
バスク1周ではコンタドールに次ぐ2位。
フレッシュ・ワロンヌ2位、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで7位。
ドフィーネ・リベレでも総合2位などと好調。
期待されたツールドフランスでは、第10ステージでマイヨジョーヌを獲得する。
しかしアルプス越えの第15ステージで、この年優勝するサストレやシュレク兄弟にレースをコントロールされ登りで置いていかれてしまう。
その結果マイヨジョーヌを手放してしまうことになる。
第17ステージのラルプデュエズではサストレのアタックについて行けず、さらにタイムを失う。
第20ステージの個人タイムトライアルで逆転を狙ったものの、叶わず、またしても総合2位でツールを終えた。
2009年のツールドフランスでは、序盤のチームタイムトライアルで失速、山岳ステージでも精彩を欠き、総合30位で終えている。
その後の世界選手権では最後の登りでアタックを成功させ優勝、マイヨアルカンシェルを獲得した。
2010年、マイヨアルカンシェルをまとったエヴァンスは春先から好調を維持。
ツアー・ダウンアンダーで敢闘賞を含む総合6位、ティレの・アドリエティコで総合3位、クリテリウム・アンテルナシオナル総合6位、フレッシュ・ワロンヌ優勝、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ4位、ジロ・デ・イタリア総合5位などの成績を残す。
しかしながら続くツールドフランスでは第8ステージの集団転倒で肘を骨折、一時はマイヨジョーヌを着るものの、総合26位で終えた。

2011年、ティレノ・アドリアティコとツールドロマンディで総合優勝。
ほかにもカタルーニャ1周で総合8位、クリテリウム・デュ・ドフィネ総合2位などの成績を残す。
ツールドフランスでは、序盤から総合2〜3位をキープ。
第4ステージで区間優勝する。
第18ステージではシュレクのスパートを見送ってしまう。
シュレクは先行していたチームメイトと合流、一時はエヴァンスに4分半あまりの差をつけるが、エヴァンス自身が追撃集団を牽引し、総合順位では逆転されるものの、その差は最小限に抑えた。
翌日の第19ステージではコンタドールのアタックに、エヴァンス、シュレク、ヴォクレールが反応、4人の逃げグループが形成される。
途中メカトラブルでグループから遅れたエヴァンスは、後続の集団と合流、ラルプデュエズ山麓で再び先頭集団に追いつくことに成功、シュレクとタイム差なしでゴールできた。
この時点で総合成績でのシュレクとの差は57秒。
第20ステージの個人タイムトライアルではエヴァンスはシュレクに対し2分38秒の大差で逆転、その結果1分34秒差のリーダーとなり総合優勝を確定的なものにした。
このときエヴァンスは34歳。
戦後のツールドフランスでは最年長の優勝者となった。
またオーストラリア国籍の選手としても初のツールドフランス優勝となった。

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